金風吹かば
ひやりとした風が頬を撫で、ゴウカザルは小さく身震いした。つい先日までは、少し動けば汗が滲むほどの陽気だったのに。
季節の移り変わりは思っているよりめまぐるしいもので。あっという間に秋が通り過ぎ、凍えるような冬がやってくるのだろう。
……それでも故郷よりは、いくらか温かいけれど。
そんなとりとめのないことを、風に流れるうろこ雲を目で追いながら、ぼんやりと考えた。
「何してんだ、こんな所で」
ふいに背中越しに声をかけられた。びくりと振り返ると、ブイゼルが茂みからひょこりと顔を出している。見知った顔に、ほ、と息を吐いた。
「驚かせないでよ」
「はは、悪い」
ブイゼルはさらりと笑い、ゴウカザルの隣に腰を落ち着ける。今日の特訓は終わったのだろう。
「……?」
風向きが変わったせいなのか、どこからか甘い香りがする。鼻をひくつかせながら辿った匂いの元は、横に座ったブイゼルだった。よくよく見ると、彼の身体に金木犀が咲いている。
「ブイゼル、どうして金木犀をくっつけてるの?」
「ん?……本当だ。茂みを突っ切ってきたせいか」
「横着だなぁ」
堪えきれず笑みを漏らすと、彼はそっちの方が近かったんだ、と少しむくれた。
彼が動く度に、はらはらと黄金色の金木犀が散る。
「君と同じ色だ」
地面に舞った花弁をひとつ摘み、振って見せる。すると、彼もまた、自分の身体に付いている金木犀を摘んでじっと眺めた。
「お前も、同じ色だ」
ふっと微笑み、ブイゼルは手に持った花びらをゴウカザルの腕に乗せる。
その仕草とともに、甘い香りがより一層強くなった気がした。
*
ぽけ。
いつものように、フカマルは空を眺めていた。どうして涼しくなると、空が高くなるのだろう。しばらく考えてみたけど、全然わからないから、今度ムクホークに聞いてみよう。
——ぐう。
お腹が鳴った。時刻はちょうどお昼ごはんと夜ごはんの中間地点だ。おやつに何かかじりにいこうか。ぴょん、と身体を起こす。
おやつを求め、てくてく歩いていると、ふんわり甘いにおいが漂ってきた。うんと背伸びをして空気のにおいを嗅いでみる。同じような甘いにおいだけど、きのみを使ったお菓子とは、何か違う感じがする。
「フカマル、何してるのー?」
ひゅうんと、グライオンが空から落ちてきた。
甘いにおいを探しているのだと告げれば、グライオンも自分と同じように、伸び上がって空気のにおいを嗅いだ。
「ほんとだ。いいにおいだね!」
「嗅いだことないにおい」
「確かに、オイラも知らないな」
グライオンは顎にハサミを当て考え込んでいたが、ぱっとこちらを向く。
「探しに行こっか!」
グライオンがしっぽでぴょんぴょん地面を跳ねる。その後ろからフカマルはとてとて歩く。さほどかからないうちに、甘いにおいの源に辿り着いた。
「あ、これじゃない? この、きいろいお花」
ふたりで木に散らばっている小さな花に顔を寄せる。
「いいにおいだねえ」
グライオンが顔を綻ばせる。
なんだかおいしそうに見えてきて、花をひとつ口に入れる。ふわっと甘いにおいが広がって、それと同じくらい、甘い味がした。
再び、ぐう、とお腹が鳴る。
もっと食べたくなったけど、花を食べすぎるとドダイトスが悲しむかもしれないから、止めておいた。
「フカマル、お腹空いてるの? 研究所に何かもらいに行こっか」
グライオンの背に乗せてもらい、研究所へひとっ飛び。空の旅の途中、さっきの花のことを考えた。
あれは何て花なんだろう。
どうしてあんなに甘いにおいがするんだろう。
気になることが、また増えた。
*
束の間の休憩時間。少し気分転換でもしようと、エテボースは練習場の外をぶらついている。この周辺は植木がよく手入れされていて、散歩しているだけでもそれなりに楽しい。ひんやりとした秋風が通り抜け、火照った身体を冷やしていく。
そんな風に乗って、どこからか甘い香りが漂ってきた。
「金木犀だね」
振り返れば、同じく休憩を取っていたチームメイトだ。彼女はくさタイプで、エテボースより植物に詳しい。
「へえ。嗅いだことはあったけど、名前は知らなかったな」
「いい匂いだよね。あ、そういえば、金木犀って、シンオウ地方には咲かないんだって」
聞き馴染みのある単語に、思わず身を硬くした。
シンオウ地方。そこで、エテボースはたくさんの分岐点を曲がってきた。
「エテボースってシンオウ地方にいたことあるんだよね。本当なの?」
エテボースの内心はつゆ知らず、チームメイトに尋ねられる。うん、確かにそうだったかも。なんて、上の空で答えた。
「……あ、そろそろ時間だ」
先に戻ってるね、とエテボースに手を振り、彼女は一足先に練習場へと帰っていく。ひとり残されたエテボースはなんとなく植木に目をやり、金木犀を探した。
——自分と運命を交換したあの子と、同じ色。
あの時、彼を追って海を渡っていなければ。
あの時、ラケットではなく彼女の手を取っていれば。
そんな仮定は時々胸に浮かぶけれど、何が正しいかなんて誰にもわからない。これは、エテボースが選んだ道だ。自分を信じてくれた彼や彼女に誇れるよう、前進するしかないのだ。
——大丈夫、大丈夫。根性があればなんだってできるんだから。
ぺちん、と音を立てて頬をひとつ叩く。そして、くるりと甘い香りに背を向けて、エテボースは練習場へと戻っていった。
*
金木犀の香りが鼻腔をくすぐり、ドダイトスの意識はゆっくりと浮上した。自分はこんなに金木犀の近くで寝ていただろうか。まだ寝起きの頭でぼんやり考える。
——まぁ、いいか。
金木犀の甘く、しかしどこか爽やかな香り。故郷では、ついぞ嗅ぐことの叶わなかったこの香りをドダイトスは気に入っていたから、目覚めの気分はとても良かった。しかし、
——ああ、まだ眠い。
何故だか、瞼は膠でくっついたように開かない。もう少し金木犀の匂いを嗅げば眠気も覚めるだろうかと、香りのする方へ頭を巡らせる。すると、予想していたような葉や花弁はそこにはなく。
——ぼふ、と柔らかな毛の感触がした。
す、と息を吸えば、小さく羽毛が震える。
「……ムクホーク、お前、何で金木犀の匂いさせてんだぁ」
どくどくと、いつもより少し速い鼓動が鼻先から伝わる。
「……さっきまで、グライオンとフカマルと、金木犀を見ていたんだ。ふたりがもっと金木犀について知りたいと言うから、お前を探していた」
「そうかぁ。じゃあ行ってやらねぇとなぁ」
そっと羽毛から顔を上げ、ゆっくり瞼を開くと、射抜くような瞳がこちらを見下ろしていた。
「起きるの、待っててくれたのか」
「……起こすのは、悪いだろう」
彼の紅い視線が、す、と外された。ドダイトスは小さく笑みを浮かべ、再び胸元へ顔を寄せる。
金木犀の甘い香りに混ざって、太陽と風の匂いがした。
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