窮鼠、鰐を噛む
──ちり、と首筋に小さな痛みが走って、意識が浮上する。十中八九、隣で寝ていたワニノコが噛み付いたのだろう。よくあることだ、今では驚いて身体を起こすこともなく、すぐに二度寝することができる。
「マグ……」
ワニノコがなにやら寝言を言っている。僕の夢でも見ているのだろうか。どうして噛み付いてくるのかは謎だけど。
「……痛いよ、ワニノコ」
いつもはすぐ離れるからと放置していたけれど、ワニノコは噛み付いたままだ。それどころか、噛み付く力がだんだん強くなっている。さすがに我慢できなくなって瞼を開けば、ワニノコの赤い目がぱちりと開いているのが見えた。
「ワニノコ、起きてるの?」
声をかけても返事はない。一層、噛み付く力が強くなって、思わず顔を顰めた。
「……マグ、おいしい……」
「え?」
一瞬離れたかと思えば、また噛み付かれる。今度は牙が皮膚に食い込んで、小さく呻く。傷口を舌で舐められ、背筋が粟立った。
──たべられる。
刹那、その言葉が脳裏を過ぎった。きっと、ワニノコという種族は、野生であれば他のポケモンの命を奪って、自身の腹を満たすのだろう──ピジョンがキャタピーを襲うのと同じように。
嫌だ、食べられたくない──。本能からの行動だった。いつの間にか僕の上にのしかかっていたワニノコの手を掴み、そのまま身体を反転させると、地面に叩きつけられた衝撃でワニノコの口が外れた。
至近距離でワニノコと見つめ合う。爛々と光る赤い目は瞳孔が開いており、まだ捕食を諦めていない。
心臓が早鐘を打つ。荒い呼吸が落ち着かない。無我夢中でワニノコの喉元に噛み付いた。深く考えての行動ではないが、ここならワニノコの牙は届かないし、両手も抑えているから振り払われることはないだろう。
「……っ、マグ」
名前を呼ばれたけれど、油断してはいけない。食べられるより先にこちらが食べてしまえばいい。
軽く歯を突き立てると、ワニノコの喉がびく、と小さく痙攣した。
「マグ、マラシ……」
ワニノコが息をする度に喉が上下する。普段では考えられない程、弱々しく声を上げる姿に──ああ、これが生命を支配する感覚。
ぞくりとよくわからない何かが込み上げ、これ以上はいけないと理性が警鐘を鳴らす。
「……は……」
そっと喉元から口を離し、やけに静かなワニノコの様子を伺えば──寝ていた。あまつさえ、ぐうぐうと寝息を立てながら。どうしてこの状況で寝られるのか、僕には全然理解できない。
思わず肩ががくりと落ちた。どうやらワニノコは寝ぼけていたらしい。僕のこの冷や汗はなんのために。
「はぁ……」
大きく溜息をついてワニノコを見る。
いっそ食べてやろうかと思うぐらい、気持ちよさそうな寝顔だった。
マグマラシは眠るのが好きだ。そんなことは出会った時から知っている。現に今も、マグマラシは目の前でぐっすりと眠っていて、息をするたびにゆっくりと身体が上下する。なんとなくそれが気に入らなくて、すっと伸びた首元に、軽く噛み付いた。
「ん……」
当のマグマラシは小さく身じろぎしただけで、瞼を開くことはない。昔からおれがよく噛み付くから身につけた技なのだろう。
……おもしろくない。おれも寝ることは好きだけど、おれが起きているのだからマグマラシだって起きてもいいのに。
「……ワニノコ、そろそろやめてよ」
無意識に噛む力が強くなっていたらしい。いつの間にかマグマラシが目を覚ましてこちらを見下ろしていた。
「あ、おはよーマグ」
一度口を離して、再びかじりつく。次は強くなりすぎないよう甘噛みだ。マグマラシがじっとおれを見ている。何を考えているのか、その目線からは窺い知れないけれど、起きてくれているのならばそれでいい。
「……ワニノコってば」
「だって、マグ寝るから……」
「……どうして僕に寝てほしくないの」
静かに問われ、言葉に詰まる。わからない。どうしてだろう。
「……おれより寝る方が大事なのが、やだ」
……ああ、そうだ。眠るよりおれを優先してほしい。ずっと見ていてほしい。こうやって噛み付きたくなるのも、例えばベイリーフがサトシに見せるような……独占欲というものなのかもしれない。
「……君、本当にわかってるの」
なにが。そう聞き返す前に手を掴まれ、ぐっと地面に押し付けられた。至近距離で覗き込んでくる赤い瞳が静かに燃えている。逃げたいけれど、逃げられない。逃さないと、その目が告げている。
──たべられる。
直感的に、そう悟った。マグマラシは肉を食べないからおれを食べるなんてありえないのに。つつ、と手で頬をなぞられ、思わず息を飲む。
マグマラシが小さく口を開き──おれの首元に噛み付いた。
「あ……」
マグマラシには牙がないから痛くはない。けれども、触れられた部位からじわりと熱が広がっていく。
声を出したいけれど、口を開いて、閉じて、それの繰り返しだ。うまく息が吸えずに、頭がだんだん真っ白になっていく。微かに滲んだ視界の端で炎がきらめいた。
「……マグ、マラシ」
ぎゅっと強く目を閉じれば、生理的に浮かんだ涙がひとつぶ零れ落ちる。それを察したのかどうか定かではないけれど、マグマラシはようやくおれを解放した。
「……わかった?」
炎を背負いながらマグマラシはおれを見下ろし、呟くように尋ねる。
……なにが。声は掠れてしまったけれど、今度はちゃんと聞けた。
「……誰彼構わず噛み付いちゃだめってことだよ」
さっきとは打って変わって優しく頬を撫でられる。慈しむように見つめる赤い瞳から目が離せない。
──やはり、食べられてしまうのだろうか。
燃えるような熱がこちらに降りてくるのを感じながら、静かに瞼を閉じた。
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