竜の子
燃える、燃える赤。
──ああ、これは夢だ。幾度となく繰り返す、あの日の夢。
目の前で大切な人が失われそうになっているのに。どんなにもがいても手を伸ばせなくて。苦しんでいる彼の声が、耳の奥に響く。
それもじきに、小さくなっていって、
──夢は残酷だ。実際には起こっていないことまで見せてくる。ヒトの手で、温かな彼の手で育てられた自分はこの時まで知らなかったのだ。命が、こんなにも軽く扱われるものだと。
涙で歪む視界は、血のように赤い夕日で染まっている。
夢ならば早く覚めて。そう願って、強く目を瞑った。
「オンバーン」
身体を揺すられ、瞼がぽかりと開いた。全身は汗でぐっしょりと滲んでおり、は、は、と息も荒い。
「あ、る、ルチャ兄……?」
目の前には、少し眉根を寄せこちらを覗き込んでいる兄がいた。夜も開けていない暗闇に浮かぶ、黄金の瞳。
「夢見が悪かったのか」
オンバーンの目から溢れる涙を拭いながら、低い声で尋ねられた。
「へへ……ちょっとね」
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
――大丈夫、あれは夢。おれは誰も、失っていない。
「ありがと、ルチャ兄。もう平気」
「……それならいいが」
「起こしてごめんね」
……謝ると、大きな溜息が帰ってきた。
思わず彼を見つめると、少し怒ったような顔。
「……お前は、そんなこと気にしなくていい」
呟く声は小さく、しかしオンバーンには十分だった。そっと腕が伸ばされ、オンバーンの耳元を優しく撫でる。
「お前は、俺の弟だろう……弟は、兄を頼るものだ」
恥ずかしくなってきたのだろうか、彼はそっぽを向いてしまったけれど、撫でる手が止まることはない。
「う、ん……そうだね……」
悪い夢で冷たくなった身体と心が、溶けていくような気がした。せっかく止まった涙が、またぽろりと零れたけれど、嫌な感じはしない。
「昔と変わらないな」
苦笑しながら、また頬を拭われる。彼の力強く、何度もオンバーンを助けてくれた手。
「ね、ルチャにい……」
とろとろと眠くなってきて、ぼんやりとした口調で彼を呼ぶ。
「きょうは、いっしょにねてもいい……?」
「ああ。俺はここにいるから、安心して寝ろ」
「えへへ……」
まだ、大丈夫だ。その日は、まだ。だって彼の声は、身体は、こんなにも生命に溢れている。いつか来る最期を考えるのは、また今度にしよう。
耳元を撫でてくれる彼のてのひら。その温かさを感じながら、オンバーンはとりとめのない思考を放棄し、眠りの世界へと落ちていった。
***
「オンバーン」
大好きな貴方が俺の名を呼ぶ。いつだって貴方は格好良くて、俺の目標だった。
――否、これからもずっと。
俺の腕の中で、そのひとは力なく倒れ込んでいた。太陽のように輝く瞳をわずかに覗かせ、こちらを見上げている。
「……すまない。お前を置いていくなんて、兄失格だな……」
そんなこと絶対ないのに。反論するようにぎゅうっと彼を抱き締める。
「……苦しいぞ」
小さく笑いながら、力強く大きな手で額を撫でてくれた。俺は彼にそうされるのがいつも嬉しくてたまらないのに、ああ、もう我慢できないや。
「男だろう。泣くんじゃない」
腕をさらに伸ばし、頭をぐいと引き寄せられた。彼の肩口が濡れる。
「オンバーン」
少し掠れた彼の声。聞き逃さないよう、いつでも思い出せるよう、耳に焼き付ける。
「なあに、ルチャ兄」
「……大きくなったな」
優しく触れる彼の手に、頬を擦り寄せた。
「俺がいなくても平気だな?」
「……うん、大丈夫」
ちょっぴり、嘘をついた。本当はずっと一緒にいてほしい。ずっと背中を追いかけていたい。けれど、俺も彼みたいに格好良くありたいから。
良い子だ、と彼は小さく笑う。
「もう子供じゃないよ……」
自分が泣いているのか、笑っているのかわからなかった。彼を抱く腕に力を込め直す。
「……ルチャ兄?」
今まで見たことのないくらい、穏やかな寝顔だった。腕がぱたりと、落ちた。
***
……みんなはどうしているだろう。
遠く離れたカントー地方にいる仲間達。旅をしていたあの頃から、どのくらい経ったのか定かではないが――。それでも、遠い昔であることは確かだった。
湿地帯のポケモン達も、随分と顔触れが変わった。仲の良かったウパーも、共に湿地帯を守っていたフラージェスも、みんないなくなってしまった。ここに残ると決めたのは自分自身で、その選択に後悔はないけれど。
――みんなに会いたいな。
その気持ちは募るばかりだ。
「……誰もいない?」
こちらに見知らぬ大きなポケモンがいると聞き、様子を見にきたのだが、そこにはただ静かな湿原が広がっているだけだった。
が、
――ばさり。
不意に、大きな羽音がした。思わず天を仰ぐと、青を背後に降ってくる、真っ黒な、影。
ヌメルゴン、と自分を呼ぶ声は、記憶にあるよりずっと青年らしさを増していた。。
「久しぶり、だね」
「……びっくりした」
少し照れ臭そうにはにかんだ彼は間違いなく自分の仲間のオンバーンだったが、もうすっかり一人前の大人の顔をしていた。
「いきなりどうしたの?」
驚きが覚めやらぬまま尋ねると、彼は寂しそうな表情を浮かべ、首に提げていた鞄から何かを取り出した。
輝く黄金の毛一束。
水で形作られた手裏剣。
燃えるような緋色の羽毛。
赤と緑の人目を引く羽根。
そして、大好きな彼の帽子。
「――ああ、」
やっと、気付いた。
もう、みんなは、この世にいない。
「……落ち着いた?」
「うん、ごめん。ありがとう」
年甲斐もなくぼろぼろと泣いてしまったぼくを、オンバーンはただ抱き締めてくれていた。
「手、出して」
言われるままに手のひらを差し出すと、置かれたものは一つの輝くバッジ。
「ボルテージバッジ……」
「サトシがね、これはお前達のものでもあるからって、預けてくれたんだ」
オンバーンはバッジケースを開く。きらりと光る、ぼく達が生きてきた証。
「……ありがとう、またみんなに会わせてくれて」
「どういたしまして」
オンバーンはにこりと微笑み、思い出を一つずつ、丁寧に鞄に詰め直す。
「……でも、ここに来たのはそれだけじゃないんだ」
「え?」
「みんなを見送って、それから――」
世界を見たくなったんだ、とオンバーンは空を仰ぐ。
「サトシが旅をしてきた所、行けなかった所、全部」
俺には翼があるしね、と得意げに彼は胸を逸らした。飛び方を兄姉に教わった彼は誇らしげだ。
「いろんなヒトやポケモンに会ったよ。サトシ達を知っているポケモンにも」
オンバーンは楽しそうに見聞きしたことを語ってくれた。訪れたことのない場所が心に浮かび、胸が躍った。そんなぼくの様子を目を細めながらオンバーンは眺めていた。
「ねえ、ヌメちゃんも行こうよ」
唐突にオンバーンはぼくを誘い、少し呆然とする。
「……え?」
「本当はこっちが目的。ね、俺と一緒に旅をしようよ。ボールは俺が運んであげる」
「でも……」
湿地帯が。そう言うと、オンバーンはお見通しだとばかりに、にやりと笑った。
「いいでしょ。ヌメちゃんの後釜はいるって聞いたよ」
「え、誰に?」
無言で自慢の耳を指差した彼に思わず吹き出す。
――世界を巡る、か。誰もいないここで過去を顧みるより、そっちの方がいいかもしれない。
「うん、行こうか」
オンバーンの手をそっと取ると、彼は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、はっとするほどサトシに似ていた。
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