揺らぐ
ちゃぷちゃぷ、耳の横で水の鳴る音がする。特訓の終わり、浮き袋を膨らませ、川の流れに身を任せて。ぼんやりと橙に染まり始めた空を眺めていた、その時。
ぐすり、と誰かが鼻を啜り上げる音がした。迷子でもいるのだろうかと川から上がり、まだぐずぐずと続く音の源へと歩いていく。
「……ゴウカザル?」
そこには白い背中を丸め、長い尾を垂らして俯く姿がひとつ。バトルでは誰よりも頼りになるのに、今は一回りほど小さく見える背に呼びかけると、彼はびくりと肩と頭の炎とを跳ね上げこちらへ振り向いた。
「隣、いいか」
ゴウカザルは今にも決壊しそうな目をしながらこくりと頷いた。
「無理に喋んなくていいぞ」
腰掛けながら、口を開きかけた彼を遮る。
「待っててやるから」
聞かない方がいいかと問えば、彼はふるふると首を横に振り、数回深呼吸をして。
「少し、怖くて」
話し始めた声は微かに震えている。
「怖い?」
「シンジの事を……忘れちゃうんじゃ、ないかって」
何を突然言い出すのかと首を傾げたブイゼルから視線を外し、ゴウカザルは再び俯いた。
「サトシとここまで来たこと、後悔なんてしてないよ。みんな優しくて、大好きで……。でも、シンジと過ごした時間をどんどん追い抜かして、そのうち僕の中から彼がいなくなっちゃうんじゃないかって……」
それを言うなら自分だってそうだ。ブイゼルの返答に、ゴウカザルはゆっくりと否定する。
「ううん。ブイゼルは、違うよ。だって君のモンスターボールはヒカリから貰ったものでしょ?」
「それが?」
「目に見える形で繋がっていたことがわかるから。君は絶対にヒカリのことを忘れない。でも、僕は、記憶の中にしか彼がいない」
自分にかけてくれた言葉、彼がよくしていた仕草。確かにあったはずなのに、思い出せなくなって。
ぽたり、またひとつ地面に雫が落ちた。
「忘れないよ」
「え」
「お前は絶対に忘れないよ。私がヒカリのことを忘れないように」
少し目を伏せながら、しかし穏やかな表情でブイゼルは続けた。
「目に見える、見えないは関係ないさ。私だって、彼女が記憶から薄れることはある。それでも、ふとした時にひょっこり出てくんだよ」
何となく、わかる気がした。研究所にあるモニタやキーボードを見る度、それに向かってポケモンセンターで戦略を練っていた彼の背中が思い浮かぶ。数えきれないほど見た景色だ。
「もう染み付いてんだよ。忘れたくても、忘れられない。誰かのポケモンになるってのは、そういうことだと思ってる」
不思議なものだと、ゴウカザルはブイゼルの言葉を噛み締めながら思う。自分を構成しているものは簡単に消えることなどないと、誰かが言葉にしてくれると不安が薄れるのだから。
……それでも、やっぱり。ちょっとだけ、怖いけれど。
「それなら、私達みんなが覚えててやるよ。みんなが覚えてりゃ流石に忘れないだろ」
名案を思い付いた、と得意げな彼にゴウカザルは思わず微笑んだ。
「……じゃあ、僕もヒカリのこと、覚えておくね」
からかうな馬鹿、と軽く肩をはたかれた時には、涙はすっかり乾いていた。
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