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烈火

 ふと、誰かが地面に降り立つ気配がした。続いて、もふり、と雪を踏みしめる微かな音。

 普通のポケモンであれば聴き逃していたであろうその音を、ファイアローは確かに聞いた。


(この音、知ってる)


 考えるのも束の間、翼を広げ冬空へ飛び立った。白が広がる景色を見下ろす。

(──見つけた!)

 そのひとを目に捉え、きゅっと口角を上げる。ああ、やっと。逸る気持ちを抑えきれず、上空に留まっているにも関わらず、翼を折り畳んだ。


(はやく、はやく)


 ひゅう、と風を切る音が耳のすぐ傍で鳴る。迫る気配に彼が空を振り仰ぐ。

 ──そして、気付いた。

 目をまんまるに見開き、口を少し開けて。名前を呼んでくれようとしているのだろうか。


 落ちる速度がさらに上がる。

 いつまで経っても羽根を広げようとしない自分に何かを察したようだ。その眦がきりりと吊り上がる。


(オレの好きな目だ)


 ファイアローは瞼を閉じる。最後に見えたのは、彼が静かに地を蹴り飛び上がる姿。

 地面にぶつかる衝撃の代わりに、ひんやりとした腕に優しく抱き留められた。あの時と同じだな、なんて、ふと思った。


「……ファイアロー」


 冷たく、けれど熱を秘めた彼の声が、自分の名を呼ぶ。それだけのことが、こんなにも嬉しいだなんて。


「お前はやはり、馬鹿だな」


 少し呆れたようにこちらを見つめる桃色の瞳に、じわりと目頭が熱くなる。

 ……でも、こいつに泣いている所なんか、見せてたまるか。笑え。


「……おかえり」


 ゲッコウガ、と。ただひたすら呼びたかったその名を、口にした。



「……あのー」


「……」

「ゲッコウガさん?」


「……何だ」


「……そろそろ離してくんね?」

「照れているのか」


「は? んなワケねーし!? このままみんなんとこ行ってやってもいーぜ!?」


「……では行くか。どっちだ」


「マジで行くのかよ小脇に抱えんなってか笑ってんじゃねーよばーか」



 ゲッコウガが大きな木の上で眠っている。すっかり脱力し、警戒心など微塵も抱いていない。だらりと垂れた舌を風が揺らす。それを目で追いながら、ファイアローは軽く舌打ちをした。


 ゲッコウガが研究所で暮らし始めた当初は、先輩方とぎこちなく挨拶を交したり、のんびり木陰で休んだりする様を、ファイアローも微笑ましく、時にからかいながら眺めていた。ゲッコウガの新たな一面を知ることは面白かったし、彼が隣にいるという事実がただただ嬉しかった。


 けれども時が経つにつれ、ファイアローはゲッコウガの変化を感じるようになった。ルチャブルやオンバーンはまだ気付いていないようだが、幾度となく隣に立って戦ったファイアローにとってその些細な変化はとてつもない違和感だった。


 近付けばひりひりと肌を焦がすような熱が。

 張り詰めた水面のような静けさが。

 彼を構成するものが、崩れかけている。

 未だゲッコウガは目を瞑っている。ぶらぶらと揺れる舌。それが無性に神経を逆撫で──。


 気付けば、ファイアローは地面を蹴っていた。加速して炎を纏う。自ら発した炎にも関わらず、ちり、と皮膚が焼けて痛みが走った。

 弾けた火花が青い身体に届くその直前、彼はひょいと肩を逸らし攻撃を避けた。依然として目は閉じたまま、動くのが億劫そうに、最小限の動きで。


 ぶちりと、頭の中で何かが切れる音がした。

「お前、これでいいのか」


 ファイアロー自身、初めて聞くような低い声。ゲッコウガもようやく桃色の瞳を覗かせた。


「……何が」


「お前だってわかってんだろ。こんな所で燻ってる場合じゃねぇって」


 ファイアローの言葉にゲッコウガは苦痛そうに眉根を寄せ、目線をふいと外した。しかし、と掠れる声が漏れる。

「……ちくしょうっ!」


 ああ、わかっている。本当は、わかっている! ゲッコウガが悩む理由なんて、一つしかないのに!


「オレ達の……オレの、せいだろ!?」

「……」

 ゲッコウガは何も言わない。けれどそれが答えだ。

 彼が帰ってきて一番喜んだのはファイアローだ。そのファイアローを再び自分の都合で悲しませることなど、実のところ誰よりも仲間想いなゲッコウガにできるはずもない。

 ぎり、とファイアローは嘴を噛み締めた。ゲッコウガを縛り付けるだけの自分がただ悔しくて。腹立たしくて。


  ──こいつの足枷になるくらいなら。

 ゲッコウガにくるりと背を向け、空を翔けた。誰にも追い付けない速度で、誰にも見つからない所まで、飛べばいい。飛ぶことは得意だから、それくらいならファイアローにもできる。

 ──縋るように呼ばれた名前なんて、聞こえない。目から溢れた何かなんて、知らない。



 ──何だ、これは。

 ファイアローが残していった、宙にばらまかれた水滴を、ゲッコウガは呆然と地面に落ちるまで見つめていた。追いかけなければと頭ではわかっているのに、足が膠で固められたかのように動かない。

 あの、どんな時でも折れない強さを持つファイアローが、


「ったくお前ってやつはよ」


 がさりと目の前の葉が揺れ、咄嗟にみずしゅりけんを構えた。――が、そこに現れたのは。


「……ガマガル。いつから」


 見知った顔に、ほっと肩の力を抜く。当のガマガルは普段と変わらぬ口元の緩んだ表情を浮かべ、はじめから、と答えた。


「カロスの英雄様は大したご身分なこった」


「……何が言いたい」


 いつもより数倍癇に障る口調だ。無意識に返答が尖る。

「いや? お前はファイアローを何回泣かせば気が済むんだろうなって」


 ガマガルを睨んでいた目を思わず見開いた。

 ──俺が、ファイアローを泣かせた?

 そんなゲッコウガを横目に、ガマガルは溜息を吐いた。


「お前がカロスにいる間、ファイアローはよく泣いてたよ。……自分でも原因がわかってないみたいだったけど。でも、お前が帰ってきてから、あいつの泣き顔は見てないんだよ」


 あいつは言わないだろうけど、と呟く声は耳に入らなかった。

 ファイアローは、ゲッコウガと離れていることを泣くほど憂いてくれていた。旅をしていた時、弱音を一度も吐かなかったファイアローが、だ。

 それなのに、ゲッコウガは自分が変わっていくのをファイアローのせいにして。あんなことを言わせて。

 挙句の果てに、ファイアローはゲッコウガの為に姿を消した。

「……最低だ」


 ぐっと拳を握りしめた。自分の、情けなさが許せなかった。


「ああ、お前は最低だ」


 項垂れるゲッコウガに、ガマガルは追い討ちをかける。にやけ顔はいつの間にか収められていた。


「けど、今からどうすればいいのかぐらいは、わかるよな?」


「──勿論だ!」

 言うが早いか、ゲッコウガは枝を蹴っていた。ファイアローの飛んで行った方向へ。少しでも、想いを返すため、青蛙はただひたすら森を駆けた。



 ファイアローを見つけるため、木々を走り抜け幾許か。

「……不味いな」


 既に日は沈み、辺りは闇に包まれ始めている。ファイアローは夜目があまり効かない。万が一、事故に巻き込まれることがあれば──。

 ゲッコウガは首を振って、嫌な想像を払い除けた。ファイアローは強い、大丈夫、と自分自身に言い聞かせる。


 ……と、

 視界に炎が灯った。何かを考える前に身体が動いた。自分があいつの炎を見間違える筈はないのだから。

 一瞬で炎は消えたが、十分。方向が定まれば後は駆けるだけ。

「……るせぇっつってんだろ!」


 ファイアローの声が聞こえる。精一杯、虚勢を張ったような声。そんな声にさせたのは、他でもないゲッコウガだ。耳に届く度、胸が痛んだ。


「付いてくんな!」


 再び、炎が灯った。ゲッコウガの背にひやりとしたものが走る。──やはり、誰かに追われているのだ。追手は恐らく、日の入から活動を始める夜行性のポケモンだろう。この暗闇では少々分が悪い。

 ……ならば。


「ファイアロー!」


 みずしゅりけんを投げると同時に舌を伸ばし、ファイアローを絡め取った。舌先に燃えるような熱。


「は、え……ゲッコウガ!?」


 暴れるファイアローはひとまず放っておく。三十六計逃げるに如かず。森の出口へただ走るのみ。



「えー……」


 ゲッコウガに連行されるファイアローが瞬く間に遠くなる様子を、残されたポケモンは呆然と眺めていた。


「おれだよー、ゲコ兄……」

 暗闇に紛れる大きな身体を持つ蝙蝠流──ゲッコウガの弟分でもある──オンバーンの言葉は誰に届く訳もなく、ただ消えていった。

 兄貴分に悟らず気配を隠せるほど自分が成長したと言うべきか、弟分に気付かないほどゲッコウガが鈍っていたと言うべきか、オンバーンには判別できなかった。


「……とりあえず、ゲコ兄に任せればいっか……」


 世話が焼けるなぁと、苦笑を浮かべたオンバーンは闇に溶けていった。



 森を出るまであと少しという所で、ファイアローは舌から脱出すべく大きくもがいた。


「離せっつってんだろ!」

「嫌だ」


 無言を貫いていたゲッコウガがようやく言葉を発した。ファイアローは前を見据えて走り続けるゲッコウガを睨みつける。


「あ!? オレがいなくなりゃ全部解決すんだろ!?」


「駄目だ。お前はここにいてくれなければ困る」


「は?」


 ファイアローは思わず動きを止め、ゲッコウガの桃色の瞳を見つめた。そこには、以前のようにすらりと研ぎ澄まされた眼差しがあった。


「本当は全部わかっていたんだ。ここにいては高みに行けないことぐらい。しかし、俺が皆の……お前の傍にいたかったから、気付かないふりをしていた」


 ようやく森を抜けた。雲一つない夜空を満月が照らしている。


「だけど、お前が教えてくれた」


 ゲッコウガは足を止めファイアローを地面に降ろしたが、飛び去ろうとは思わなかった。正面から彼と向き合う。


「お前にはここで──待っていてほしい」


 ……ああ、彼は、覚悟を決めたのだ。それならばファイアローの答えは。


「わかった。待ってる」


 知らず知らず、声が震える。自分で望んだことなのに、視界が歪む。

 ……駄目だ、泣くな。こいつに泣き顔なんて見せてたまるか。

 必死に涙を堪えていると、ゲッコウガがファイアローの顔をひんやりとした肩に引き寄せた。


「俺は何も見ていないから」


 我慢しなくていい。耳元でそう囁かれ、とうとうファイアローの目から雫が落ちた。とめどなく溢れる涙をゲッコウガはただ受け止めていた。



「あ、アロ姉! 良かった、戻ってきた」


 研究所の近くを飛んでいたファイアローにオンバーンは声をかけた。そして首を巡らせ、共に帰ってくると思っていた姿が見当たらないことに気付く。


「ゲコ兄は? 一緒じゃないの?」


「……ああ。あいつは……」


 また会いに来るからと離れていった手のひらの感触。振り返らず遠ざかっていく背中。大丈夫。もう泣いたりはしない。


「……行ったよ」

 ──誰も知らない、高みへ。

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