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桜風

 寒さも和らぎ、春がやって来た。定位置となった彼の背に留まり、柔らかな日差しを全身に浴びる。毎年変わらぬこの瞬間が俺は好きだった。

 はらはらと、薄紅の花弁が春空に舞っている。それらを目で追っていると、ドダイトスの樹にふわりと落ちた。ふ、と微かに笑みが漏れる。


「ムクホーク、お前何笑ってんだ」


「……起きていたのか」


 眠っていたはずのドダイトスに問われ、少し驚いた。さっき起きた、と欠伸混じりの返答。


「んで、何かあったのか」


「ああ……お前の樹に、桜が咲いたみたいだと思って」


「はは、そりゃあいい」


 からからと、ドダイトスの笑い声が響く。

 彼の樹には、桜のような目立つ花は咲かない。それを彼は少し気にしているようだったけれど。

 青々と茂った葉の中に顔を潜り込ませる。そこには、小さな、まだ硬い蕾。季節が初夏に移る頃、段々と綻び始めるのだ。

 ──これは、きっと俺しか知らない花。

 桜の花は確かに目立つし綺麗だ。しかし、ドダイトスの咲かせる花は、彼らしくて、何より美しいと俺は思う。

 ──願わくば。次も、その次の年も。一番近くでこの花が開くのを見守れますように。


***


「ムクホーク」


 彼が俺を呼ぶ、その声が遠い。目を開けている筈なのに、その姿が霞む。一つだけ見えるのは、彼の赤い瞳。

 直感で悟った。俺はもう、彼の傍には居られないのだと。ムクホーク、と心配そうな声の源に顔を寄せる。


「……大丈夫」


 暫くそうしていると、ひんやりとしたドダイトスの頬に俺の熱が移って温く感じた。

 そろりと、名残惜しく顔を離す。その直前、額に雫が落ちる感触。ああ、俺の為なんかにお前は泣いてくれるのか。


「……何、笑ってんだ」


 少し湿った声で問われる。


「いいや、なんでも」


「元気じゃねぇか」


 ぶは、と彼が噴き出す。やはり彼は笑っている方がいい。

 彼の声を聞いていると、力が戻ってくるような気がした。ふ、と小さく息を吐いてから羽を動かし、よろよろと飛び上がった。目的地は、俺の定位置。最期を迎えるならば、ここがいい。

 着地が上手くできず、どさりと音を立てて身体から突っ込んだ。かなりの衝撃だったと思うが、ドダイトスはものともせず受け止めてくれた。


「随分下手になったなぁ」


 からからと笑う彼に反論しようと口を開けるが、音を紡ぐことができない。


「……ムクホーク?」


 返事がない俺を案じたのだろうか。声の調子が変わる。……そんな声を出さないでくれ。俺は平気だから。もう少しだけ、もう少しだけでいいんだ。 喉に力を込め、振り絞る。幾度となく呼んだ彼の名を。


「……ドダイトス」


「どうした」


「……すぐ、会いに来るから」


「ああ」

「そうしたら、また……背中に乗せてくれないか」


 こんなことを言うなんて、俺は無責任だ。もう傍にはいられないのに。本当に来られる保証など、どこにも無いのに。

 わかっている。彼を縛ってしまうことなんか。彼は仲間想いだから、いつまでも待ってくれるのだろう。

 ……それでも、ここは俺の帰ってくる場所なんだ。


「当たり前だろ」


 間髪入れず、しかと頷く彼。ああ、いつだって、お前は格好いいな。



「ムクホーク」


「……ん」


「もう、寝るのか」


「……そう、みたいだ」


「そうか」


「……じゃあ、また……ドダイトス」


「ああ。おやすみ、ムクホーク」


***


 ざあと風が強く吹き、背中の葉を揺らした。ゆっくりと進めていた脚を止め、空を見上げる。どこまでも透き通っていくような青色。


 ──今日もいい空だ。


 嬉しそうに呟く彼の声が耳の奥に蘇った。

 彼がこの世を去ってから、いくつ季節が巡っただろう。風を切って羽ばたく力強い音、その翼の温かさ。真っ直ぐな紅い眼差しや太陽のような匂い。全部、ぜんぶ忘れることなどない。



 ドダイトス、と名を呼ばれ振り返れば、今や立派に成長したガブリアスがそこにいた。何やらこちらを心配そうに見つめている。


「……ムクホークのこと?」


 思わず苦笑する。もう会えないのは彼だけではないのに、ずばり当てられてしまった。


「そんなにわかりやすかったか?」


「だってドダイトス、ムクホークのこと考えてる時はいつもここに来てる」


 無意識だったため、ガブリアスの言葉に動揺する。ああ、でも確かにそうだ。だってここは、


「……仕方ねぇよ」


「わかってる。別に止めたりなんかしない」


「ん、ありがとよ」



 ここは、彼と過ごした最後の場所だ。



 ──また、背中に乗せてくれないか。


 あの時、そう尋ねた声はどこか自分を責めているようだった。彼は俺がこうして待つことなど望んではいないのだろう。彼は真面目だから、お前はお前のために生きろ、なんて言いそうだ。けれど。


 ──会いに来るから。


 そんな彼がああ言った。だから、俺は待っている。



「ねえ、そこのドダイトスのおにーさん」


 ふいに幼い声がした。首を巡らせ、近くの木の枝に留まっている声の主を見つけた。

 くるんとした特徴的な頭の毛、丸くて大きな瞳、みっつに別れた尾羽。まさに今、思い出していた彼の、かつての姿。


「お、まえ……ムックル?」


「おれ、ムックルって言うの?」


「ん?……あぁ、お前みてぇのはムックルってんだ。ただ、俺の知ってるやつと色は違うな」


 野生のムックルは俺達の故郷、シンオウ地方に生息しているはずだ。通常であれば、カントー地方でその姿を見ることはない。単純に考えるのであれば、自分勝手なニンゲンが捨てていった、という所だろう。

 ……しかし、こいつは通常のムックルとは色が違う。それに、何か訳ありの気配がする。


「お前、どこから来た? 誰かと一緒じゃねぇのか」


「わかんない。気づいたらひとりでここにいた」


 それよりさあ、とムックルがこちらに小さな翼を羽ばたかせ近付いてくる。そして目を合わせ。


「ムクホークのおにーさんから伝言があるよ」


 は、と間抜けな声が漏れた。こいつは、何を言っている?……彼は確かに、俺が看取ったはずだ。それに、初対面のこいつが何故俺と彼が親しかったことを知っているのだろう。

 混乱している俺をよそに、ムックルはすらすらと言葉を重ねる。


「おれ、夢の中でかっこいいムクホークのおにーさんと会ってさ。ここにドダイトスってやつがいるからよろしく頼むって言われたんだ。それ、おにーさんだろ?」


 ……ありえない。誰か、俺達を知っている誰かから聞いて、からかっているに違いない。そう頭ではわかっていても、丸い目をきらきらさせたこいつが嘘を言っているようには、どうしても見えなかった。


「……他に……そいつ、ムクホークは……何か言ってたか」


 真実である確証はどこにもない。けれど、聞かねばならない、と直感が告げている。久方ぶりに呼ぶ彼の名が、少し震えた。


「えっと、たしか、約束覚えていてくれてありがとう、遅くなって悪かったって」


 ……そうか。ちゃんと、お前は。

 ふ、と口が緩む。見上げれば、彼が好んでいた真っ青な空。束の間、目を細めた。


「……わかった。伝言してくれてありがとな、ムックル」


「ムクホークのおにーさん、約束破ってたの?」


「ん、守ってくれたんだよ」


 ふうん、と呟きつつムックルはぱたぱたと俺の背中に降り立った。その重さが何とも懐かしく――。


「おにーさん、なんで笑ってるの?」


「いんや、なんでもねぇよ」


***


 はらはらと、薄紅が春空に舞っている。それらをぼんやり眺めていると、遠い昔、彼と桜を鑑賞していた時の記憶が蘇ってきた。当時、派手な桜と比べると、自身の花が小さく、地味なことはドダイトスにとって少しコンプレックスだったのだが。


 ――俺は、好きだ。


 穏やかな彼の言葉。


 ――始めは小さくても、必ず立派な実が成る。まるで、お前みたいじゃないか。


 彼の顔や声はもうぼんやりとしか思い出せない。けれど、言葉だけはどれも染み込んでいるのだと、強く実感する。

 彼が好きでいてくれた花も、今年は蕾を付けることはなかった。その時点で、気付くべきだった――否、気付かないふりをしていた。

 春空に溶けるような花弁が散る。その中に混ざる、褪せた緑。


 ――お前ももう、寿命か。


 ドダイトスの第二の生命である背中の大樹。かつて青々と茂っていた葉の大半は既に散ってしまっていた。


 ――ああ、やっと俺も。


 永い、本当に永い時間を生きてきたドダイトスであるが、死だけは未知の概念だった。怖くない、と言えば嘘になる。

 しかし、魂が極まった、その先には。きっと彼が待っていると信じている。

 ひときわ強く風が吹き、桜が乱れ舞う。視界が薄紅に覆われる、その前に。

 桜色より鮮烈な、紅を見た気がした。



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