一夜
太陽が僅かに橙を残し、西の彼方へ沈んでゆく。周囲は徐々に薄闇に染まり、自身の藍色との境目が溶け始める。俺は夜目があまり効かないから、たとえ知り合いがいても気付くことができないかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、すいっと視界の端に流れる光が一つ。
「ヨルノズク」
呼びかけると、彼は首をくりっと捻らせこちらを一瞥した。そして音もなくこちらへ降下してくる。
「……何か用か」
「いや、特に」
そう答えると、どうして呼び止めたのかと言わんばかりの、冷たい視線が返ってくる。それでも、ヨルノズクは飛んで行かずに俺の傍にいてくれるから、無意識のうちに頬が緩んだ。
「何か可笑しいことでも?」
「別にー」
「……貴様はいつでも楽しそうでいいな」
「へへ、そうだろ?」
「褒めていない」
呆れる彼の顔を、夜空を照らし始めた月の光が浮かび上がらせる。
黄昏時。昼に生きる俺と、夜に生きる彼が交わる、貴重な時間。この特別な瞬間が、俺は蜜と同じぐらい好きだった。
「そろそろ行くぞ」
「あ、うん。あんまり遅くなると、ワニノコ達が騒ぐもんな」
飛ぶスピードはヨルノズクの方が速いけれど、俺に合わせてくれている。そんな彼のわかりにくい優しさに気付く度、明日の黄昏時がさらに待ち遠しくなるのだ。
***
「ヨルノズク、起きてる?」
声を潜めた奴に呼びかけられたのは、月の出ていない夜だった。へにゃりと、ひとの好い笑みを浮かべている。
「珍しいな」
奴――ヘラクロスは早起きな質で、このような時刻に活動していることは多くない。
奴はちょっとね、と困ったように頬を掻いた。いつになく神妙な様子が気になり、近くに飛び移った。
「……何かあったのか」
なかなか口を開かない奴に痺れを切らし、そう尋ねる。ヘラクロスは、こんなこと頼むのは気が引けるけど、と何やら前置きをしたかと思うと、顔をぐいとこちらに寄せ、
「俺と寝てくれないか?」
……とりあえず、エアスラッシュをお見舞いしておいた。
「虫の知らせ?」
全身傷だらけの奴は、こくりと頷いた。少しやり過ぎたかもしれない。
「胸騒ぎがするんだ。何かが起こる気がして」
「今まで似たようなことはなかったのか」
「一度も」
ヘラクロスは首を振り、目線を落とす。
「だからさ、ちょっと怖いんだよ」
情けないけど。と、また困ったように笑った。バトルに向かう勇猛な姿はどこにも見当たらない。
「誰かに傍にいてほしかったんだ」
それならばどうして私なのだろう。日頃から、奴に対して当たりの強い自覚はある。
「なんとなく、かな。上手く言えないけど……ヨルノズクもきっと、その時が来ればわかるよ」
真っ直ぐなその瞳を見て、ふと思った。もしかしたら、ヘラクロスは朝が来たら冷たくなっているのかもしれない。だとしたら、らしくもなく弱気な言動にも合点がいく。おそらく、奴も本能で悟っているのだろう。最期の頼みならば、聞いてやるのが仲間というものだ。
「……全く仕方のない奴だ」
「へへ、ごめん」
こてりと、ヘラクロスは私の肩に顔を預けてきた。それでも体重がかからないよう加減されているから、やはり優しい男なのだ。
「ヨルノズクの羽、こんなに温かかったんだな」
ヘラクロスの息がかかり、少しくすぐったい。
暫くそうしていると、奴の瞼がとろんと落ちてきた。翼にかかる重みが増す。
「……このまま、寝ても、いいか?」
「今日だけだ」
「……ありがとな」
ヘラクロスはすぐに、すう、と穏やかな寝息を立て始めた。おやすみ、と呟いた声は届いただろうか。
触れ合っているこの瞬間が、奴のように明るい太陽の下でないのが少し、残念だった。
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