宵
今回は絶対上手くいくと思ったのに、何がいけなかったのだろう。薄暗くなった森の中を肩を落とし、とぼとぼと歩く。
ベイリーフ曰く、女の子なら一度はロマンチックに誘われてみたい、らしい。だから、
——月を見ながら蜜でもどうですか。
と、風流に決めてみたのだが、フシギダネには通用しなかったようだ。返ってきたのはいつもより何倍も威力のあるつるのムチで、叩かれた頬がまだヒリヒリと痛む気がする。
きっとフシギダネはオスだから、ロマンチックな作戦は心に響かなかったのだろう。明日からは今までと同じように、いやそれ以上に根気強く頼み込んでみよう——などとぼんやり考えていると、森を知らぬ間に突っ切っていたようだ。視界が一気に開け、瞑色の空がさぁっと広がった。
その中にぽかりと浮かぶ、山吹色の満月。太陽と見紛うほどの輝きに、しばし立ち尽くしたまま見惚れた。
普段であればそろそろ眠くなってくる時間帯だが、今日はまだ目が冴えている。それに、研究所から少し離れているからだろうか、周囲には誰もいない。せっかくの機会だし、もうしばらく月見と洒落込むかと、腰を落ち着けた。
瞬間、
「振られたらしいな」
聞き馴染みのある声が降ってきた、と思ったら、軽い衝撃とともに視界ががくんと揺れた。
「貴様の苦情は全部、私に来る」
溜息混じりに、頭上で呆れたように彼が呟く。
ヨルノズクは近頃、俺のツノに留まるのがお気に入りらしく、今のようにいきなりやってきて、気が済んだら去っていく。それでも、首が持って行かれない程度の強さで降りてきてくれるし、彼の重みはほどよくトレーニングにもなるので、そこまで気にしてはいない。
「いい加減諦めたらどうだ」
「迷惑かけてるのは謝るけどさ、蜜だけは譲れないんだよ」
「貴様は相変わらず、馬鹿だな」
くつりと小さく笑う気配がする。言い様は手厳しいが、どことなく楽しげだ。
「まだ寝ないのか」
「なんか、目、冴えちゃってさ。月が綺麗だからかな」
「確かに、今日の月は一段と、明るい」
ふ、と彼が息を吐いた。
「……明るい夜でも、身を隠す必要がないというのは、こんなにも——」
独り言のようにそこまで呟いた後、彼ははっとしたように言葉を切った。
「……いや、気にしないでくれ」
自嘲するような声が落ちてくる。非日常な程にまばゆい月が、彼の口を軽くしたのかもしれない。
……ヨルノズクは今、どんな顔をしているのだろう。
無性に、そんなことが気になった。彼がツノに乗っているということは、その表情を窺い知れぬということで。珍しく自発的に心の内を覗かせた彼は、己の失言に苦笑しているのか、呆れているのか、それすらもわからない。
——自然と腕が頭上に動いてしまったのは、月が煌々と輝いているせいだ。
ヨルノズクの小柄な身体に触れると、彼は一瞬、びくりと硬直した。その隙を逃さず、身体を掴んで引き下ろし、腕の中に閉じ込める。温かくなめらかな羽毛の感触が心地いい。
顔を覗き込むと、彼は不満げに、じとりとこちらを睨んでいる。
「……何のつもりだ?」
「……なんとなく?」
考えて動いた訳ではないため適当に誤魔化すと、盛大な溜息が返ってきた。正直、エアスラッシュの一つや二つや三つ、覚悟していたのだが、いつまで経っても彼に飛び立つ気配はない。
本当に、珍しいこともあるものだ。思わず笑みを漏らすと、釣られて彼も表情を緩ませたように見えた。
とくとくと、俺よりも少し早い鼓動を感じながら、とっぷりと闇色に染まった夜空を仰ぐ。
月は依然として、頭上できらめいており——きっと、その輝きで、見る者を酔わせるのだろう。
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